◆旧約聖書内10分の1献金 ◆新約聖書内10分の1献金 ◆文鮮明師のみ言10分の1献金
旧約聖書に出てくる 十分の一献金(10分の1条)
創世記28章20節から22節
ヤコブの誓い
20 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、
21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。
22 またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。
民数記18章20節~28節
祭司やレビ族は宗教活動や奉仕に専念していたため、ほかの仕事をしたり,自分の土地を持っていませんでした。そのため、祭司ではないレビ族の人たちは,民から「10分の1を受け取」り,「その中から10分の1を」祭司たちに捧げました。
20 主はまたアロンに言われた、「あなたはイスラエルの人々の地のうちに、嗣業をもってはならない。また彼らのうちに、何の分をも持ってはならない。彼らのうちにあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である。
21 わたしはレビの子孫にはイスラエルにおいて、すべて十分の一を嗣業として与え、その働き、すなわち、会見の幕屋の働きに報いる。
24 わたしはイスラエルの人々が供え物として主にささげる十分の一を、レビびとに嗣業として与えた。それで『彼らはイスラエルの人々のうちに、嗣業の地を持ってはならない』と、わたしは彼らに言ったのである」。
25 主はモーセに言われた、
26 「レビびとに言いなさい、『わたしがイスラエルの人々から取って、嗣業として与える十分の一を受ける時、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主にささげなければならない。
27 あなたがたのささげ物は、打ち場からの穀物や、酒ぶねからのぶどう酒と同じように見なされるであろう。
28 そのようにあなたがたもまた、イスラエルの人々から受けるすべての十分の一の物のうちから、主に供え物をささげ、主にささげたその供え物を、祭司アロンに与えなければならない。
レビ記27章30節
30 地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。
31 もし人がその十分の一をあがなおうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。
32 牛または羊の十分の一については、すべて牧者のつえの下を十番目に通るものは、主に聖なる物である。
33 その良い悪いを問うてはならない。またそれを取り換えてはならない。もし取り換えたならば、それと、その取り換えたものとは、共に聖なる物となるであろう。それをあがなうことはできない』」。
34 これらは主が、シナイ山で、イスラエルの人々のために、モーセに命じられた戒めである。
マラキ記3章8節
10分の1をしないことにより、主のものを盗んでいるのと同じである。
8 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
マラキ記3章10節
10分の1をすることにより主は恵みを与えるといわれました。
10 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
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新約聖書に出てくる 十分の一献金(10分の1条)
マタイによる福音書23章23節
23 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。
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文鮮明師のみ言 十分の一献金(10分の1条)
十一条(10分の1献金)は選ばれた子女たちの基本道理である。神様の数である1数をささげることによって9数までもささげたという条件がたてられ、この十文の一数は残りの数よりももっと貴重に思わねばならない。
(み旨の道)
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皆様、さらには、天一国の民は、誰もが天の前に人類の福祉と平和のための基金の募金活動に参与するようになります。
しかし、税金の形式ではなく献金として、収入の十分の三をまず先に国家に捧げて暮らす模範を見せなければなりません。
強制ではなく、自発的に喜んで天の前に捧げる心情の奉献でなければならないという意味です。
天一国は太平聖代の理想天国
2006年6月13日
京畿道清平「天正宮博物館」
天宙平和の王真の父母様「天正宮博物館奉献式と戴冠式」のみ言
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公金に対して厳しくなければなりません。
10分の1献金は徹底しなければ自分の総収入から10分の1を必ず神様の前に捧げなければなりません。
(11-218,1961.8.20)天聖経 『天聖経』「礼節と儀式」p.1014
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10分の1献金は、所有している物質中の10分の1を神様に捧げることにより全体を捧げる、という意味をもっています。
父に全体を捧げるのではありませんが、その中の10分の1に精誠を込めて捧げることにより、残りの10分の9も聖なる物として取り扱えるようになります。
このように10分の1献金を捧げて生活する人は 絶対滅ぶことがありません。
日がたてばたつほど、倉事がいっばいになっていくのです。
(31-239,1970.6.4韓国前本部教会「公的統治の法度」)
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精誠を込めて10分の1献金をしてみなさい。
絶対に飢え死にしません。
その子孫は、物質に対して窮乏しないのが原則です。
10分の1献金を捧げるために精誠を込めなさい。
それが信仰の本質です。
適当にすればよいだろうと、それは通じません。
祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。
それで、一番貴重な物を捧げるのです。
(63-338,1972.10.22)
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蕩減するために物を条件にします。
私たちが10分の1献金を天の前に捧げる理由もここにあります。
9数は堕落世界の数です。10数はこれを超える数です。
天の世界の数です。
(10-217,1960.10.14)
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レビ族が治める教会の祭壇の前に、11支派は全部10分の1献金を捧げなければなりません。
これからは10分の1献金を捧げなければ教会員ではありません。
もともとは10分の3献金を捧げなければなりません。
一つは自分の国のために、一つは世界のために、一つは教会のためにです。
10分の3献金を捧げなければなりません。
私たちが生きていく上で生活の10分の1献金を出すのは絶対的です。
それを自分の物だと侵犯してはいけないのです。
なぜそうなのかといえば、33が9(3×3=9)の「9」は、サタンが今まで支配したのです。
サタンが支配するこの地上を、9数を天の前に返し連結させれば、神様が主管できるようになるのです。
そうすることにより10数を探し出すことができるので、
私が神様を信じて9数を引っ張っていけば、この9数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離できるのです。
それで10分の1献金という言葉が出てきたのです。
(150-218,1961.4.15)
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復帰途上を越えていく過程にあって、私たちは10分の1献金ではなく10分の3献金をする覚悟をしなければなりません。
一つは国へ捧げ、一つはこの世の中の人たちに施さなければなりません。
復帰過程ではしなければならないのです。
また一つは、天の国へ捧げなければなりません。
10分の1献金というのは、天の責任を担う人として、絶対に侵犯してはならないのです。
そのようにして誠心誠意を尽くさなければならないのです。
(150-218,1961.4.15)
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10分の1献金は、一番精誠を尽くした聖なる物でなければなりません。
それが祭物です。
祭物を捧げるには、聖なる物を捧げなければなりません。
息子を祭物として捧げなければならないとするなら、どんな息子を祭物に捧げなければなりませんか。
憎い息子ですか。望みのない息子ですか。
そのような息子は祭物にはならないのです。
一番良い息子でなければならないのです。
なぜですか。祭物は「私」の代身となるからです。
(48-85,1971.9.5)
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教会の10分の1献金生活も、食口の家庭が10あれば引導者一人を食べさせなければいけません。
そのようにできなければ天民権をもつことができません。
10人が住めば、天の人一人を扶養しなければなりません。
10分の1献金は、すべてに該当します。
学校も、10教室中の1教室は、かわいそうな子供たちのための無料奉仕 の教室として使わなければならないのです。
これからは皆さんが持っているすべてのもの、時間までも10分の1 を捧げなければなりません。
過去と同じように物質だけではありません。仮に家族が10人いたら、一人を差し出さなければなりません。
そのような基準で出なければなりません。これからは、私たちの教会食口は10 分の1献金ができなければなりません。
10分の1献金ができない人は食口ではありません。
これは義務です。天的な義務だというのです。
(50-218,1961.4.15)
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聖日は10分の1献金の日であり、自分の日ではありません。
ですから天の命令どおりに服従する日なのです。
天の物を私の物として使おうとするのが罪です。
私の子供の中の一人を天の前に捧げなければならず、そのようにできなければ他人の子供でも勉強をさせ天の前に捧げなければなりません。
そうめん1杯を食べるにしても一人で食べてはいけません。
天の父に仕えている者として一人で食べて申し訳なければ、「共にいらっしゃる父の前に私一人で食べるしかないので心苦しいのです」と言い、父が参与できる条件を立てて、必ず父母をまずもてなす立場に立てておいて生活しなければならないのです。
服を買っても、一人で着ることはできません。そのような生活をしなければならないのです。
(150-218,1961.4.15)
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統一教会では、十分の三献金をします。
これは何でしょうか。
地上で負債を負えば、それがそのまま霊界まで連結されます。
それを解決するためには、早く負債を返さなければなりません。
その負債を返すのを待ってあげる条件として、十分の三献金をしなさいというのです。
負債は、いくら難しくても、それを清算しなければ自分が恥ずかしいのです。
それは、実績においてゼロであり、マイナスになります。
十分の三献金というものは何でしょうか。
まずは教会のために、次には国のために、その次には世界のために使うものです。
このように、教会と国と世界のために使うのが十分の三献金です。
万民がすべてそのようにすることによって、飢餓状態で死んでいく二千万人の人を救済できるのです。
至誠感天 家和万成 第三節 献金生活の生命化 第三節 献金生活の生命化
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イスラエル民族の中で、レビ族が十一条をもらって生活していたのと同じように、これから皆さんも、そのようなことをしなければなりません。
統一の食口、侍る者として私たちが行くにあたって、生活の十一条を出すことは、絶対的です。
それを自分のものだといって侵犯してはいけないというのです。
なぜそうかといえば、九は三×三=九、これをサタンが今まで支配したというのです。
今日、サタンが支配するこの地上において、この九数を天の前に預けて連結させることによって、神様が主管することができるのです。
そうして、十数の位置を探しておくことができるので、私が神様を信じて、九数を引っ張って入っていけば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離し、切ることができるのです。
それで、十一条という言葉が出てきたのです。
何となく出てきたと思うのですか? そうではありません。
(一五〇―二九九)
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天聖経 第十一篇 目次 第二章 礼拝儀式
第二節 献金生活
2 十分の一献金の内容を見れば、そこには本当に恐ろしい内容があります。
十分の一献金を捧げなければならないという聖句もあります。
十のうち、一を神様に捧げなさいというのです。
「なぜ十分の一献金をするのか」と言う人もいるかもしれませんが、十分の一献金は、一だけ捧げたということを、十まで捧げたという認定を受けるものです
もし皆さんが、皆さんの父母の誕生祝いや還暦祝い、あるいは王の誕生日を迎えて祝賀してさしあげるために、牛も屠り、豚も屠り、あるものないものすべて作って捧げた場合、その方たちがそれをすべて食べるでしょうか。
食べません。受け取ることはすべて受け取りますが、すべてを食べることはできず、ほんの少ししか食べられません。
このように少ししか食べなくても、すべて食べたという条件が立てられるのです。
3 十分の一献金は、「私」が所有している物の中から十分の一を神様に捧げることにより、全体を捧げるという意味があります。
父に全体を捧げるのではなく、その中から精誠を尽くして十分の一を捧げるというのは、そのような意味で価値があるのです。
そのように十分の一を捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱われるようになります。
このように十分の一献金を捧げながら暮らす人は、絶対に滅びません。
日がたてばたつほど、その人の「天の倉庫」があふれるようになっているのです。
至誠感天 家和万成158ページ 31-239 1970、6、4
4 神様のみ前に精誠を捧げるとしても、手つかずの物をもって精誠を捧げなければなりません。
そのようにしてこそ神様と関係を結べるのであって、使い残した物で精誠を捧げてはいけません。
十分の一献金は、一番精誠を込めた手つかずの物でなければなりません。
それが祭物です。祭物を捧げるときは、手つかずの物を捧げなければなりません。
もし、息子を祭物として捧げるとすれば、一番良い息子を捧げなければならないのです。
祭物は「私」の代身だからです。
天聖経 第十一篇 第二章 礼拝儀式第二節 献金生活4
5 精誠を尽くして十分の一献金をすれば、絶対に飢え死にしません。
その子孫が、物質に関して窮乏に遭わないのが原則です。
十分の一献金を捧げるために精誠を尽くさなければなりません。
それが信仰の本質です。適当にするのは通じません。
祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。
ですから、最も貴いものを捧げなければなりません。
地上人にとって一番貴いものは生命です。
ですから、「私」の生命を捧げるのです。
これが、蕩減復帰の祭物を通して罪を洗い清めることなのです。
。(天聖経11-2-2-5)
6 十数は帰一数であり天に至る数です。
人間が占有できる数は九数までです。
九数は、今までは悪い数として扱われてきました。
サタンが今までこれを支配したというのです。
今日、サタンが支配するこの地上で、この九数を天のみ前に預けて連結させることにより、神様が私を主管できるのです。
そのようにして、十数の位置を取り戻しておけるので、私が神様を信じて九数を引っ張れば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離することができるのです。
それで、十分の一献金という言葉が出てきたのです。
(天聖経11-2-2-6)
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献金とは、信仰と献身の物質的表現である。古代の動物献祭は消えて久しく、今ではそれが十分の一献金、または托鉢僧への布施に変わった。類型を問わずあらゆる献金は、信仰的心情の外的表現である。本質的に献金とは、自分自身の代わりに捧げるものである。
世界経典II