天聖経4-3
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 うなれば、おじいさんとおばあさんは隠してあったすべてのものを、愛に関するすべてのものを全部、 与えるのです。 世の中で年をたくさん取ったおじいさんはだれでしょうか。神様です。ですから、そのおじいさん のために尽くす愛を自分のおじいさんから学ぶのです。このような伝統を学び、おじいさんである神 様のすべての秘密の倉庫にある愛の宝物を自分がもらうことができるのです。どれほど素晴らしいか というのです。(一〇七-三二九) 世の中で一番経験が豊かで、豊富な経歴をもった神様がだれかというと、おじいさんとおばあさん です。年を取っているので、あまりたくさん寝ないのです。ですから、「ああ、おじいさんはわが家 を寝ずに守ってくれる神様だなあ! 私たちを守ってくれるために、こんなに年を取ったんだなあ! しわを見ると、年を取ったなあ!」と、そう考えなければなりません。それが美しいのです。そのよ うなおじいさんとおばあさん、年を取ったおじいさんとおばあさんに仕えるなら、火事にもならない し、泥棒にも遭わないのです。 おじいさんとおばあさんが寝なくて何をするのでしょうか。祈祷をするのです。「神様、うちの子 女に恵みをお与えください。恵みをお与えください」と、祈祷するのです。祈祷して、「おい、だれ それや! おまえ、きょう、出歩いたら危ないよ。言うことを聞きなさい」と、このようにすべてを 教えてくれるのです。「きょうは出かけてはいけない! けんかをしてはいけない! 息子よ、どこ かに行かないようにしなさい、娘よ! 嫁よ! きょうは遠くに行ってはいけない」このように教え てくれるのです。 ですから、孫たちにそのようなおじいさんとおばあさんが必要でしょうか、必要ではないでしょう か。愛をもてば、おばあさんとおじいさんも小躍りし、お母さんとお父さんも小躍りし、兄弟同士も 小躍りするのです。このような形態を備えて暮らす人は、宇宙が保護するのです。だれかがその人を 殺そうとすれば、自動的に宇宙が防いでくれるのです。(一〇七-三二七) 父母は孫をどこか送ろうとすれば、必ずおじいさんの承諾を得なければなりません。父母の勝手に はできません。おじいさんが神様の立場になるのです。(一〇七-三二六) ◆六 祖父母と孫との関係 考えてごらんなさい。孫がですね、よちよちと歩き回る孫が家に入ってきて「ああ、おじいちゃん、 おばあちゃん、どこ行った」といえば、どうですか。お母さんとお父さんも座っていて、自分の兄弟 たちもたくさんいますが、入ってくるやいなや、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」と いうなら、それがふさわしいですか、変ですか。それはどれほど変でしょうか。言葉もぞんざいに 使って。「おじいちゃん、どこ行った」 では、その言葉を考えてごらんなさい。今、八十歳を越えたおじいさんとおばあさんにこれはほん の子供が大胆にふんぞり返って、突っ立って、お父さんとお母さんも全部いるのに、お兄さんとお姉 さんが自分よりも立派なのに、そこにふんぞり返って、突っ立って、「おじいちゃん、おばあちゃん、 どこ行った!」といっても、全部、目をまん丸くして、「おい、こいつめ! この子は! 何だ」と、 叱る人はいません。 それはなぜでしょうか。ふつうならば、ほかの所からほかの人たちが来て、そういったなら、「う ちのおじいさんに向かって、おまえ、そんなことがいえるか」と、大騒ぎになるはずですが、孫がふ んぞり返って、突っ立って、そのような話をすれば、喜びます。「そうか、そうか、おじいさんに会 いたいのか」となるのです。 それが何かというと、おじいさんに対して、「どこに行った」というのが、餅をくれということで すか、ご飯をくれというのですか。その内容が問題です。内容が何かというと、おじいさんに会いた いということです。そうなれば、会いたがるのはいいことですか、悪いことですか。それはいいこと だというのです。 天下が会いたがり、また、会いたいと同時にその次には、どうしたいのですか。じっと四方を見渡 しても、お兄さんをじっと見て、お姉さんをじっと見ても、今、どこかの膝のところに行って少し座 りたいのに、こちらを眺めても、あちらを眺めても、お兄さんの顔色をじっとうかがって、行って三 分だけ座れば、追い払われるのが分かり切っているのです。また、お父さんもよく見ると、忙しくて 疲れたお父さん・・。それは皆、経験を通して知っているのです。行って、お尻を載せて十分だけ 座っていても、嫌がります。それは、皆、測定感覚が早いのです。さっと見て・・。 13
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 けれども、おじいさんは、おじいさんをよく見れば、おじいさんのように年を取った人たちは、膝 に座れば、一時間座っても、じっとしており、二時間座ってもじっとしているのです。そのように 座っても、家族の中で一番自分をたくさん抱いてくれるのです。抱いてくれて、「この子はどうで、 この子は耳がどうで」といいながら、触ってくれるのは嫌ではありません。整えてくれ、なぜてくれ、 触ってくれ、あるときは、触らないところがないくらい、すべて触ってみますが、それでも嫌ではあ りません。それがどれほどすてきですか。どれほど素晴らしいかというのです。それは木の一番てっ ぺんが、本の幹のてっぺんが根と一つになろうという、その話と通じるのです。 では、中心の根と中心の芽とが愛し合うようになれば、どのようなことが起こるでしょうか。そこ につながったすべての根とすべての枝は、愛し合うまいとしても、愛し合わざるをえなくなるのです。 それを考えてみなさい。中心の芽と中心の根とが愛し合うようになれば、それが何かというと、全体 を抱くことのできる因縁だというのです。このように見るとき、根の中で中心の根が家庭の中でだれ ですか。孫、長男の長男だというのです。それゆえ、おじいさんはいつも目を開けて長男の長男を見 上げ、また見下ろすのです。これを知らなければなりません。(一三九-一五) ◆七 家和万事成の真なる意味 わが東洋の教訓の中で「家和万事成」という言葉がありますが、それはとてもいい言葉です。家と いえば、そこはもちろん人が中心になっています。おじいさんとおばあさん、父母、子供、このよう にいますが、それだけではありません。家自体は万物を縮小したものです。そこにすべて集まってい るのです。 そのように考えるとき、わが家といえば、ふつう「そこは父母がいるところであり、妻子がいると ころである」と考えるのです。しかし、わが家といえば、それだけではないというのです。おじいさ んとおばあさんがいて、そのほかにも家があり、庭があり、すべてのものを縮小したものの中に環境 がよく調和しています。そうしてこそ気分がいいのです。合わない環境に、うちのおじいさんとおば あさんがいれば、気分もよくないのです。 おばあさんとおじいさんが互いに向かい合いながら笑う姿は、若い夫婦がうれしくて、大声で「へ へへ」と笑う姿とは比較できません。「ほっほっほっ」といいながら、しわが寄ったおじいさんとお ばあさんが笑う笑みはすてきだというのです。知らないからそうなのであって、全部、和合する、互 いが相応する立場で笑うそのおじいさんとおばあさんの笑みがあることによって、すべてのことが和 動するというのです。おじいさんの笑いは深くて、「はっはっはっ」と笑います。手ぶりをしても、 動作はのろいのですが、広く、気高く、深く、大きくするのです。 すべてのことが上・中・下の三段階で連結されてすべての調和が始まらなければなりません。それ ゆえ、調和というものは一線上の二点では成されません。二点を通過するものを線といいますが、二 点上では調和の美がないのです。直線なのにどうして調和の美が生まれますか。ねじれ、曲がってい てこそ調和が生まれるのです。それゆえ、三点以上を経る、ここに調和が生まれるのです。ですから、 おじいさんがいるかと思えば、中間にお父さんがおり、次には、その下がいます。だいたい家庭を四 代として見るのです。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、それから自分の夫婦、それか ら子女がいます。 層々侍下(父母・祖母など世話すべき人が元気でいること)という言葉があるではないですか。 層々侍下が何層になるでしょうか。いくら多くとも、もちろん四代、五代まで暮らす家庭がときどき あるでしょうが、ふつうは四代です、四代。おじいさん、お父さん、それから私たち、子女、このよ うになっているのです。こう見れば、私たちの統一教会の原理は三段階です、三段階。蘇生、長成、 完成。 ですから、「和」する家庭、「家和万事成」といいますが、その「家和」になれば、なぜ「万事 成」でしょうか。「家和」になれば、すべてのことが成されるというのですが、なぜそうでしょうか。 言葉でだけでそうでしょうか。詩的で詠みたくてですか。そういうことではありません。違います。 「家和」、これはおじいさんとおばあさんを中心とした四代が上に、下に、東西南北に、前後左右上 下に和合して、笑顔の花が咲くことをいうのです。(一三九-一二) 第三章 家庭は天国の中心模型 14
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 ◆一 家庭はすべての存在の中心モデル 人が空間の世界に立つようになれば、必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。 それでこそ自分の存在位置が確定されるのです。皆さんが上下を正しく備えているか、左右、前後を 正しく備えているかによっていろいろな姿になるのです。 皆さんの上下、左右、前後関係、そして家庭の問題や国の問題、世界の問題を扱う上で、公式は一 つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように家庭でも父母と子供がいなければならない し、夫と妻がいなければならないし、兄弟姉妹がいなければならないのです。同じように、国にも国 の主人を中心としてすべての家庭が東西の文明、南北の文明をすべて抱き、その次に世界万民を兄弟 姉妹のように抱き、結局一つの家庭モデルを実現するのです。モデルは同じです。そして私自身がそ のモデルの中心です。 自分がいて次には自分の家庭がなければならないし、国と世界と天と地、そして神様まで行かなけ ればならないのと同じ道理です。皆さんは宇宙の中心になりたい思いがあるだけでなく、皆そのよう になることができます。 このように宇宙においてその核のようなものが家庭の概念です。天を父母と見れば地は子女です。 東西を見れば東方は男を象徴し西方は女を象徴するので、女は結婚することによってどこでも夫の位 置に従っていくのです。西方が太陽の光を浴びて光り輝く時東方と同じ価値をもつのと同じです。兄 弟関係も同じです。長子である兄さんを中心として行動するとき、弟たちが協力するようになるので す。 ですから人間は親子の関係がなければならず、夫婦関係、そして兄弟関係がなければなりません。 すなわち、この三つの関係が一点で結ばれなければなりません。その中心点は一つです。上下、左右、 前後の中心が違ってはいけないというのです。この中心点が違えば上下、左右、前後関係の均衡がみ な崩れるというのです。それで結局上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点まで全部で七数を なすようになるのです。 このように七数を成すというのはまさに神様を中心として完全な真の愛で一つになりこのすべてが 完全に球形になって、調和と統一を成す家庭になるというのです。私たちがよくラッキー七というの もこのような観点から一理あるというのです。 真の愛が永遠に変わらない限りこの中心核も変わらず、永遠に回るようになり真の家庭の理想が成 されるようになります。またすべてのものが核から連結されるのでこの中心核から一つ、二つ、三つ、 四つ、五つ、六つ、七つ、全部が同等です。おじいさんが願えば孫が反対せず、息子・娘もそれを願 うようになり三代がみな共に願うようになるのです。おじいさん、おばあさん、夫婦、息子、娘みん な中心に合わせるようになります。 この愛を中心として見るとき、親子の関係も一つなので一体と言うし、夫婦関係も一体と言うし、 兄弟関係も一体と言います。一つの体です。何を中心としてこのょうな関係を一体と言うのかといえ ば愛の中心である神様の真の愛を中心として言うのです。真の愛を中心として父母と子供が一つにな り、夫婦も一体となり、兄弟姉妹も同じです。このようになることによってすべての価値が同等にな ります。(祝福家庭と理想天国I-五七) ◆二 家庭は宇宙の愛に接する愛の教材 宇宙とは何でしょうか。被造世界のすべてのものは神様が愛する息子・娘が愛の理想を求めていけ るように教材としてつくっておいたものです。それですべてがみな相対的な構造です。鉱物も主体と 対象の関係で作用します。原子もそうです。陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しな くては存続することができません。運動をせずしては永続、存続ができないというのです。ですから 宇宙は人間を中心としてその重点に到達できるように創造された世界だというのです。(一三七-五 九) 宇宙とは何なのでしょうか。家庭を拡大したものです。家庭の愛を完全に成した家庭を見れば上中 下(父母・夫婦・子女)がいて、左右がいて、前後がいます。これが原則です。それで上下を言うと きは父母と子女のことを言うし、左右を言うときは夫と妻のことを言うし、前後を言うときは兄弟の ことを言います。このような全体が何によって一つになるのでしょうか。力でもなく知識でもお金で もできません。ではどんなものでできるのでしょうか。愛です。間違いのない真理です。そうでなけ 15
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 れば球形にならないのです。 それなら上中下は私たち家庭において何なのでしょうか。愛の教材です。宇宙の愛に接することの できる愛の教材です。そのようなことを社会に出てしなさいというのです。どのように愛さなければ ならないのでしょうか。イエス様も「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言いましたが、 どのようにすればいいのでしょうか。漠然としています。 世の中に出ていっておじいさんに接するときは皆さんのおじいさんのように対しなさいというので す。お母さんのように対し、お父さんのように対し、息子のように対しなさいというのです。 世の中に出れば、みなそのようにしなければなりません。上中下と前後左右の人が世界という展示場 に展示されています。人の博覧会が世界だということを知らなければなりません。皆さんがそのよう な愛を持ってすべてのものを愛することができればその中に神様が共にあります。(一二八-二三) 天国とは何でしょうか。自分の家庭のように世界の人々を愛することのできるところが天国であり、 そのような人が天国の民です。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、自分の妻、兄弟、子 女、この四代は何でしょうか。天の国の民として愛を、宇宙の真の愛を体験するための教材としての 家庭です。教材として私に教えてくれる基盤が家庭だというのです。(一二九-九八) 私たちは宇宙の愛を習わずしては生きられません。神様は教本や経典のようなものをつくって「あ なたのおばあさんとおじいさんを愛しなさい。地上にいるおばあさんとおじいさんは霊界のおばあさ んとおじいさんを代表して送ったのでそのおばあさんとおじいさんを愛することは全体を愛すること にしてあげる」と公約するのです。 その次には「あなたかお母さんとお父さんをこの上なく愛することはこの世界の数多くのお母さん とお父さんを代表する教本のように愛するモデルにしたので全体を愛した条件にしてあげる。また男 性として女性を愛したことは世界の男が世界の女を代表的にまとめて愛したこととして見てあげる」 というのです。 またその次は「あなたの息子・娘を愛したことで全体の息子・娘をみな愛したことにしてあげる」 というのです。ですから家庭はその訓練を受ける訓練所です。経典による世界の愛の訓練過程ですが、 その訓練を受けた人に今からこの世に一度出て皆さんのおじいさんとおばあさんの代わりにこの世の おばあさんとおじいさんを愛することができるのかというとき「イエス」と言えば、それは世界を救 うことができるのです。(一三〇-二七三) ◆三 愛の王国に入籍するための愛の訓練場 愛の王国を実現したいのが神様のみ意です。愛の理想世界を発展させ世界化させようとするのが神 様のみ意だというとき小学校卒業から大学の学士・博士卒業までパスすることのできる実験場がどこ かといえば家庭です。 家庭を拡大すれば世界です。世界をよく見てみるとおじいさんとおばあさんが住む世界、それから おじさんとおばさんが住む世界、兄さんと姉さんのような人たちが住む世界、青少年たちが住む世界、 子供たちが住む世界があります。ですから老年から壮年、中年、青年、少年たちが住むここが、形が 大きいだけであり数が多いだけであって家庭を拡大させたものです。(一四七-二八一) 家庭は天国に入ることのできる最小単位の修練所であり、教材です。そこにはおしいさん級、お母 さん級、夫婦級、兄弟級が皆あります。これをおじいさんとおばあさん、あるいはお母さんお父さん の年齢、その次には自分の年齢、息子・娘の年齢に拡大させたのが世界人類です。この人類を自分の 妻のように愛し父母のように愛し、息子・娘のようにために生きることのできる家庭だけが天国を相 続できるのです。これは驚くべき事実です。神様がつくられた天と地のすべての権勢を相続できる特 権がここにあるのです。(一四三-二八五) 家庭は死ぬとき天の国や平和の王国に入籍する手続き権を得ることのできる愛の教科書です。家庭 が愛の修練場だというのです。この家庭を拡大したものが世界です。おじいさんのような世界があり、 おばあさんのような世界があり、お父さんとお母さんのような世界があり、夫のような世界があり、 妻のような世界があり、息子・娘のような世界があるというのです。これを拡大すればそのまま世界 になるというのです。ですから自分の家庭を愛するように、その家庭を中心として神様を愛するよう に全世界の人々を愛すればそれが天国にまっすぐ行く道になるのです。 したがって「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」というのが 16
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 第一の戒めです。第二は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というものです。神様を愛 し人類を愛せばすべて終わるのです。それができなければいくら修養しても意味がありません。宗教 でいくら修業を積んだとしても神様を愛することを知らず、人類を愛することを知らず、全宇宙を愛 することを知らないならばすべて落第になるのです。 家庭で全体宇宙を縮小させた修練所のような公式過程の愛を体験して拡散させ、世界を愛さなけれ ばなりません。そうすることのできる訓練場として引き継いだのが皆さんが育った、お父さんとお母 さんが住む家庭だというのです。 ですから自分の妻を愛する以上に父母を愛し、自分の妻を愛する以上に息子・娘を愛し、自分の妻 を愛する以上に人類を愛し、自分の妻を愛する以上に神様を愛するならすべてオーケーです。だから といって自分の妻を捨てろというのではありません。そのようにみんなを愛するようになればその愛 を受けたすべての人々が自分の妻を愛するようになるのです。それ以上の栄光の場がどこにあるで しょうか。自分の妻を愛そうとするならば、そのようにしなさいというのです。(一四二-二四二) ◆四 家庭は天国の模型教科書 子女の立場にいる人はどんな運勢を受けなければならないのでしょうか。祖父母と父母の運勢を引 き継がなければなりません。祖父母はなぜ必要なのでしょうか。過去を代表するからです。祖父母は 過去の生きた歴史を代表します。その次に父母は現在を代表します。それから子女たちは未来を象徴 します。そこには東西も入っているし、南北も入っています。そして全体の中心です。祖父母の中心、 父母の中心、子女の中心、神様の中心、このすべてのものが真の愛を中心としたものです。 ですからおじいさんを愛しおじいさんを尊敬するのは過去をすべて引き継ぎ、過去の世の中を学ぶ ことです。お父さんからは現在を学ぶのであり、子女を愛することは未来を学んでいくことです。お じいさんとおばあさん、お母さんとお父さんを通じて何を引き継ぐのでしょうか。真の愛を引き継ぐ のです。おじいさんとおばあさんは年を取っていますが二人が真の愛に一つになっており、お母さん とお父さんが一つになっているので私たちもあのようになって未来を引き継ごうというのです。です から絶対に真の家庭にならずしては未来を引き継ぐことができないのです。 家庭のこの三つを見る時、それは宇宙を見るのと同じです。宇宙の愛は現在と未来を代表した真の 家庭にあるのです。動物世界を見ても雌を愛し雄を愛しますがこれは宇宙の愛を学ぶことのできる教 科書です。おばあさんがいなければ不安定です。おじいさんがいなくても不安定で、どちらがいなく ても同じです。このようになればそのまま天の国へ移っていくのです。祖父母、父母、子女がそのま ま天国に行くのです。真の祖父母を愛し、真の父母を愛し、真の子女、真の家庭、真の国家、真の宇 宙を愛した人が天国に行くのです。その模型教科書が家庭です。(一六二-一四〇) 家庭は天国をつくることのできる教材です。天がつくっておいた教材です。世界にいるおじいさん の年齢の人をみな自分のおじいさんのように愛すればその人は天国に行くようになっています。自分 の父母のような年齢の人を自分の父母のように愛すればどこに行っても通じます。万国共通です。霊 界に行っても境界線ができないのです。万国の若者を自分の子女だと思う心をもてば彼は十二の真珠 門があり方向があっても天国のどこでも通じるのです。ですから家庭というのは天国と因縁を結ばせ るための教材です。 それを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心 とすれば神様の子女、聖子になるのです。人はみな、そのような欲望をもっています。(一三七-七 八) 皆さんは五色人種の子女を抱きその孫たちを抱くことができなければなりません。ですから神様の 真の愛をもって真の父母として世界人類を愛する家庭の主人になったという立場に立たなければなり ません。神様の愛を中心とした本然の父母の因縁の中で真の愛の家庭基準を代表することのできる立 場に立つことによって、初めて天国に入ることができるのです。(一七六-二一〇) ◆五 家庭は三時代の愛が結集した核心体 歴史を抱き、時代を抱き、未来を抱くことができるのが家庭です。ですから神様が今まで六千年を 経ながら求めてきた最後の基点は何でしょうか。家庭です。その家庭は愛が連結された、愛によって すべてが結束された家庭です。存在するすべてのものはみなこれに主管を受けるのです。根源的な愛、 絶対的な愛との関係を離れることはできません。このような家庭をつくるのが神様が創造当時にアダ 17
・ 『天聖経』 第四章 真の家庭 ムとエバにくださった本来の使命ではなかったのでしょうか。 神様は男性アダム、女性エバとして終わるのではなく互いに結合した新しい家庭を夢見られたので す。これが神様が男女を立てられた第一次的な出発の起源です。ですから家庭を求め、家庭圏内で神 様の愛を中心としてこの世で充足感を感じることのできる境地に入って生きてこそ天国も無事に通過 するのです。そうしてこそ、この世界も切り抜けられます。(三〇-八六) 愛の家庭園を形成するためには絶対的でなければなりません。父母は歴史に代わることができるも のであり、夫婦は時代に代わることができるものであり、子女は未来に代わることができるものです。 自分が一つの時代で一人の相対を愛することは、神様が世界に対されるのと同じことです。ここで父 母と夫婦と子女が一致し、天雷を代表して私たちの愛を見習いなさいと言うことができるし、後孫た ちに対して私たちに従いなさいと言うことができるし、内心や外心で主張できる心の本郷、天情が通 じるそこは天地に記憶されることでしょう。(三〇-八〇) 今まで神様は何を探してこられたのでしょうか。主体を探してこられたのではありません。理想的 な対象を探してこられたのです。神様に似て、ご自身がつくられた世界の内外の内容を備えているも のを探してこられたのです。このような結果的な一つの基点が何でしょうか。家庭です。家庭より宇 宙を代表することができるものがないのです。 父母と一つになることは歴史と現実が出会うことです。ここで「私」は父母を愛することで過去を 愛することができるし、相対を愛することで現実を愛することができるし、子女を愛することで未来 を愛することができます。ですから私は、三時代の愛を体験することができるのです。三種類の愛が 結集した核心体がまさに家庭です。(三〇-八〇) では天国生活はどこからでしょうか。家庭からです。他のところから始まるのではありません。天 国は家庭を立体的に拡大させただけであって、家庭園を離れたものではないというのです。ですから 皆さんが自分の妻や夫を抱くときにはこれは世界の男性と女性が一つになるのだと思わなければなり ません。このように世界人類を愛したという条件を立てることのできる場が、まさにこの家庭なので す。 皆さんはそのように生きていく道を求めなければなりません。父母を愛することは歴史と現在を連 結させることであり、神様が訪ねてくることのできる道を整えることです。ですから父母を愛さなけ ればなりません。歴史的な存在と時代的な自分を連結させること、すなわち過去と現在を一つにする ことが父母を愛することです。また自分を中心として子供を愛することは、現実と未来を連結させる ことです。そしてこのような愛を千年万年たたえるようにしようという思想が統一思想です。(三〇 -八三) ◆六 家庭は心情的な訓練場所 私たちは心情を離れては生きられません。自分が大統領だとしても、あるいは世界的なすべての権 威をもったとしても心情的な喜びを表せるところがなければ生きられません。自分が率いる人たちや 閣僚たち、あるいは追従する人たちには心情的な満足を感じることができません。それは家庭で感じ なければなりません。 家庭に帰ってきて夫婦が互いを通じて喜びを感じ、また子女を通じて喜びを感じることができなけ ればなりません。そうしてその喜びを他の人に誇ることができなければなりません。その喜びは第一 次的な喜びであって二次的な喜びではありません。神様も同じです。この世界をすべて復帰したとし ても家庭のない神様は喜ぶことができないのです。結局、家庭がなければならないのです。(二五- 八六) 家庭では父母を中心としなければならないし、社会を代表する教育機関では先生を中心としなけれ ばなりません。父母は自分に乳を飲ませて育て、すなわち生理的な発展を助け、それで情緒的な面を 助けてくれるのです。では、学校は何でしょうか。社会的な生活、将来の生活舞台を中心として訓練 させるのです。家庭が情緒的な訓練場なら、学校は社会においての実験的な訓練所です。 社会で終わるのではありません。それがどこに行って帰結するのでしょうか。国に帰結します。国 には国王がいます。人々がみな大統領を慕い、大統領の近くにいようとする理由は何でしょうか。家 庭から社会まで、すべてのことを知ってから、それからどこに行くのかというと、もっと大きなとこ ろに行くのです。 18